ルーシーが座っている大きな樹の木陰に入った。その木陰に一歩足を踏み入れた瞬間、心地よいそよ風が耳たぶを通り過ぎた。日向では日光が粘液のようにしつ こくまとわりついてきたが、どうやらこの木陰にまではついてこれないらしい。僕は小さく深呼吸をして、大きな樹の木陰に全身を入れた。

  街から少し離れた丘にこの大きな樹は生えている。樹齢百歳ぐらいだろうか、大人数人が手を広げても囲めないほど幹は太く、枝は屈強な男の腕のように頑丈で 長い。樹の下に立って見上げると、枝から生えた葉っぱが獣の毛のようにふさふさと生い茂っていて空を覆うようだ。しかしその重厚な姿とは裏腹に、樹はこの 村を守る守護神のように神々しく清らかな空気を漂わせている。

  僕がこの村に派遣されたとき、この大樹は空から降り注ぐ眩い光を反射していて、まるで大樹自身が光を放っているように眩しかった。その姿は僕を歓迎してい るようにも、また余所者である僕に警告を発しているようにも見えた。そのどちらなのかはこの村に一年近く駐留していても分からない。

 火照った手で幹に触れる。すると手のひらにドクンドクンと脈打つような波動が伝わってきた。この樹は生きている。いや他の草木たちも生きているけれど、この樹からは普通の植物とは違った生命の脈動が感じられた。

「まるで生きているようだ」

 僕は緑の空を見上げながら、溜め息と共に呟きを吐き出した。大樹はそれに返事をするかのようにさわさわと木ずれの音をたてた。

「ルーシー?」

  樹の幹を指先で撫でながら、さっきから何も話しかけてこないルーシーを呼んでみる。いつもは僕の姿を見るとカナリア声で僕の名を呼びながら駆け寄ってくる のだが、今日はなぜか僕に話しかけようともしない。黙りこくったままだ。僕はしばらく樹の幹をトントンと叩きながら待ってみるが、返事はない。突然、葉が ざわめく音が耳元で鳴り響いた。その音は不気味で、心臓の音を大きくさせる。ざわざわと葉が擦れあい、ドッドッと心臓が不安を叩き起こす……まさか、死ん でいる?

「ルーシー」

  波打つように高ぶったり引いていったりする意識を、僕は頭を振ることでなんとか失わないようにできた。けれどルーシーを呼ぶのに絞り出した声は、蚊の羽音 みたいに細く震えていて、声というよりも日常に溢れる雑音といったものだった。そよ風が葉っぱ同士を打ち合わせる音が、心の底から恨めしくなるくらい雑音 だった。

  思わず心地よいそよ風に舌打ちをし、僕は荒くなりつつある息を必死に整える。肩が上下する……落ち着け、落ち着くんだと心の中で何度も自分自身に言い聞か せても、僕の肺は新しい酸素の要求を止めることはしない。チクショウ、情けなくなってくるじゃないか。こうやって、思い切ってルーシーのほうも見れないな んて。僕は軍に入って強くなれたんじゃなかったのか? チクショウ……生暖かい幹を拳で殴る。右手に埋め込まれた小銃の銃口がガツリと音をたてた。その音を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。パソコンでいう と急に電源が落ちたように。そして再起動される。再起動された直後、一番最初に浮かんだのはルーシーだった。

  僕は無意識のうちに隣で座るルーシーのほうを向いていた。そして首元が燃えるように熱くなって、そして急激に冷えていった。目の前には至って平和な光景が 座っている。そう、なんてことはない、真っ白なワンピースから小麦色の肌を覗かせるルーシーは、眼をつぶり耳にヘッドフォンを当てて何かを聴いていたの だ。リズムに乗っているのだろう、時折頭を小刻みに揺らしている。

  僕は体中の熱を大きな溜め息で一気に吐き出し、彼女の肩にそっと手を置く。細く、柔らかい肩だ。骨が皮膚を通して感じられる。ごつごつと角ばった骨の感触 ではなく、まるで、こう、骨ではない何かのようだ。何かだ。僕にはそれがなんだか分からない。けれどそれは骨よりも滑らかで、皮膚越しで撫でているだけで 安心感が紅茶のように腹の辺りで広がっていく。そうだ、これはこの樹の生命の脈動と似ている。他の植物とはどこか違う、樹の生命の脈動もまた、ルーシーの 骨のようなものと同じで、紅茶だった。ルーシーの長い髪を手で除けて、うなじの辺りに唇を付ける。舌先をそっと当てると、砂糖をたくさん入れた紅茶の味が した。ルーシーの小さい頭には不釣合いなゴツゴツしたヘッドフォンから、微かにギターのノイズが聴こえる。

 ルーシーが眼を開けこちらを向いた。僕の顔に気付くと、彼女は少し驚いたように細い両眉を上げた。

「どうしたの、アカマル」

  ヘッドフォンを外したルーシーは肩に置かれた僕の手を握った。温かくて、柔らかい感触が僕の手を包む。親指の腹をルーシーの手の甲に走らせる。まるで絹で 作られたシーツの感触だ。いや、蚕の繭だ。柔らかくて温かい繭に僕の手は包まれていて、その手触りは絹そのもの。生きている蚕の繭だ。養蚕家がルーシーの 手を見たら、きっと糸を紡ごうとするだろう。そしてルーシーの手からは輝く糸がするすると出てくるんだ。

「何を聴いているんだ?」

 ルーシーの耳元に息を吹きかけながら呟いた。くすぐったそうにルーシーは微笑むと、僕の手をきゅっと軽く握った。

「ジャパニーズロックよ。グラスホッパーっていうバンドのCDで、確かアカマルがくれたCDよ」

「そんなCDあったっけ。テキトーに日本の中古CDショップで買って持ってきたから覚えてない」

  日本を発つときにバッグに詰め込んだCDを出来る限り思い出してみるが、グラスホッパーというバンドの名前は出てこなかった。ロックバンドには詳しいつも りだったが、そのバンド名は初めて聞いた。ルーシーのそばに落ちていたCDジャケットを見てみると、それには上のほうにグラスホッパーと、中央に大きくラ イトハンドピストルとアルファベットで書かれていた。

「ねえ、帰ろう」

  しばらく考え込んでいると、ルーシは退屈だと言うように勢い良く僕の手を引っ張ってきた。ルーシーは樹の日陰から出て、降り注いでいく尖った日光をことご とく跳ね返していった。跳ね返された日光は僕の目に突き刺さって、そして僕は痛みに似た眩しさで目を閉じた。そしてゆっくり目を開ける。ギラギラ照らされ た草原とあの不思議な大樹のように煌びやかに輝くルーシーが、まぶたを針で突くように刺激する。

「帰ろうか」

 陰と日の境目。僕はそこから右足を一歩出す。そして右手、左足、全身と日陰から出る。すると待ってましたとばかりに日光は僕を出迎えてくれた。グサグサと日光が首筋に刺さる。

 僕は刺された首筋を手で擦りながら、ルーシーの手を引き村へ戻る道を辿った。

 アスファルトを扱う技術を持っていないこの村では、もちろん道路など舗装されていない。村人たちが幾度も踏み歩き、土が固まってできた道路を歩いていく。

 ブーツがガリガリと土を削る音がする。右手にはルーシーがいて僕はときたまそちら振り向く。その度に彼女は軽く微笑んで、僕の右手に埋め込まれた銃口を指先で撫でた。青い空では雲雀に似た鳥が、祭りのときに吹かれる横笛のような鳴き声を降らせる。

 平和だった。何もかもが穏やかに時が流れていて、今、すぐ隣の街で戦争が起こっていることなど関係ないという風に。今がずっと続けばいい、そんな思いを込めて僕は鳥のように口笛をひゅうと吹いた。

 

 

 

 

 

 ルーシーを家に送り届けてから村の中心部にある駐留基地へと帰った。そこは駐留基地とは名ばかりのコンクリート作りのホテルのような建物だ。どうにも頼りなさそうだが、僕はこの駐留基地が好きだ。基地全体から漂ってくる、戦争とは無縁の雰囲気が。

 入り口には警備のために兵が二人いるが、どちらも暇そうに煙草をふかしてだらしなく地面に座っていた。僕がその二人に入場許可証を見せると、彼らは形だけチェックを、つまりざっと目を通しただけで入場許可を言い渡した。

「おかえりなさいアカマル先輩」

 入場許可を出した茶髪の警備兵が白い歯を見せながら煙草を勧めてきた。だけど僕は煙草を吸わないので断った。

「きみまでアカマルと呼ぶのか。先輩をあだ名で呼ぶなんて不謹慎だと思わないのか?」

「だって皆、アカマルって読んでるんだからいいじゃないですか。それにアカマルって、煙草の名前みたいでかっこいいし」

 確かに、今では駐留軍内どころか村全体で僕のことをアカマルと呼ぶ。けれど僕は煙草を吸わないのであまりいい気がしないの。

「きちんと丸山と呼べ。次、アカマルと呼んだら裁判にかけるぞ」

  そう言うと、茶髪の警備兵は大笑いしながら地面に寝転んだ。僕は脅しのつもりで言ったのだが、どうやら彼にはジョークに聞こえたらしい。その辺、僕には先 輩としての威厳がどうにも足りない。数分たってもいまだに茶髪の警備員は白い歯をむき出しにして笑い転げている。ふと思ったのだが、煙草を吸っている彼の 歯はどうしてあんなにも白いのだろう。

 なんだかここで言い合うのも馬鹿らしくなってきたので、笑い続ける茶髪の警備兵を放っておいて基地に入ることにした。

ホ テルみたいな建物の割には重厚な扉を押し開けて基地内に入る。扉を開けた途端に目に入るオレンジ色の照明、外の乱暴な日光とは正反対の優しい光だ。天井に は洋風の照明器具がぶら下がっていて、ふらふらと死にかけの蛍みたいに揺れている。外見がホテルのようだったら、内部もホテルのようだ。緑と茶色の迷彩服 を着た兵がウジャウジャと歩き回ったり喋りあったりしていて、じっと見ていると迷彩服のせいで森の中に迷い込んでしまったのかと間違えてしまいそうだ。

 しばらくこれからどうしようか悩んでいると、ぼんやり眺めていた兵の群集が人の形にぼこぼことした森に見えてきて目が疲れてくる。とりあえず一旦部屋に戻ることにしようと、僕は割り当てられた部屋に足を向けた。

「おいアカマル! おい! お前やっと帰ってきたか!」

  階段の最初の一段に足をかけたとき、後ろから突然怒号をかけられた。ギザギザした声質で、それに大きい声だから雷みたいだ。こんな特徴的な声は一度聞いた ら忘れられないだろうな。正直ここで誰かと会話したくなかったが、声をかけられては仕方がない。僕はぐったりしはじめた心を無理やりいきり立たせて、そし て後ろを振り向いた。

「ただいま戻りました隊長」

  とてもじゃないが、熱さに揉まれた後に敬礼なんてしたい気分じゃなかった。けれど一応形だけの敬礼を、ロビーのソファーにふんぞり返って座っている水面隊 長に向かってする。すると隊長は満足げに坊主頭を頷かせると、テーブルに置かれた瓶ビールをコップに注ぎこんだ。コップは二つ置いてあって、そのうちの一 つを僕のほうに差し出した。

「やっと戻ってきやがったかこの色男。まあ飲め!」

 僕は小さく溜め息をついて、心の中では舌を打ち、げんなりとした気分で隊長の向かいに座った。

  隊長は悪い人ではないけれど、こうして酔っ払ったときは中々解放してくれないから困る。あまり飲み仲間を持っていないからなのか、ときどきこうしてロビー に居座っては暇そうにしている兵を捕まえては飲みあう姿をよく見かけていた。捕えられるのを避けたいので、僕はよく裏口から基地へと入っていたが今日は油 断して入り口から入ってしまった。

 半ばやけくそ気味に、僕はコップに入ったビールを一気に飲み干した。爽やかな苦味と刺激が喉を通り過ぎ、胃に溜まっていく。そういえばビールを飲むのは久しぶりだな。

「おお、いける口じゃねえか。もっと飲めもっと」

 僕の飲みっぷりを見て、隊長はそうはやしたてながらビールをコップに注ぐ。僕はそれを今度はちびりちびりと飲むことにした。

「それにしても昼間っからビールなんて、うちも暇ですね」

 隣の街では戦争をしているというのに、ここののんびりとした雰囲気は不思議なものだった。兵全員の右腕に埋め込まれた小銃は未だに一発も銃弾を放っていない。

「そう不満を言うなアカマル。うちもこの前までは自衛隊だったんだ。いくらアメ公様が無理やり軍に変えたって、いきなりドンパチはさせてもらえないさ」

「別に不満を言っているわけじゃないですよ、ただみんな戦争って雰囲気じゃないと思いまして」

  派遣された当初は僕も皆も緊張していたが、この村を守るという任務は大して危険じゃないということが分かって、次第に緊張どころか遠慮もなくなってきてい た。暇を持て余した兵たちは、サッカーなどスポーツをやって遊んでいるものもいれば、隊長のように朝から晩まで酒を飲んでいたりしている。ただ僕みたい に、村の女性と交際している人はいないようだ。

 はあ、と隊長は酒臭い息で深い溜め息をつくと、コップのビールを飲み干し、またコップにビールを注いだ。

「そうなんだよなあ。どいつもこいつも戦争に参加しているという自覚が足らない! って昼間から飲んでる俺が言えたことじゃあないな」

「まあいいじゃないですか、平和で。最近では銃を撃ってみたいって言う奴もいますけど、おかしいですよそんなの。銃なんて極力撃ちたくない、そうでしょ? 撃ちたいなんて言う連中は狂ってるんですよ」

「そうだな、その通りかもしれないな」

 残り少なくなったビールを飲み干して、ソファーの背もたれにもたれかかる。天井を見上げると、オレンジ色の照明は未だにフラフラと揺れていた。

 

 

 

 

 

 虫の鳴き声が鬱陶しい。鈴虫のものか、こおろぎのものか、はたまた知らない虫のものか。パトカーのサイレンに似た虫の音が耳に近づいては離れ、僕の眠りを妨害していることが目的のようにそれは延々と繰り返されている。

 虫の音のせいで徐々に寝苦しくなってくる。音が首をじっくりと締め付けてくるようだ。肩が痛くなってくる。高低を行ったり来たりする音が肩に圧しかかっているような、重苦しい感覚が、頭の片隅に小さな頭痛を植えつける。

  しつこい苦しさに思わず寝返りをうった。すると次の瞬間、一瞬の浮遊感と共に衝撃が僕の頭を貫いた。グワングワンと二日酔いのような頭痛と眩暈が、目の前 に飛ぶ火花と共に僕に襲い掛かる。あいかわらずついていないな……床に転がったまま目頭を押さえて、僕は今この状況を考えてみる。なぜ僕は床に転がってい るのか、そもそもなぜここに寝ていたのか、痛みを訴える頭を使って記憶を遡っていく。確か……僕は隊長とビールを飲んでいたはずだ。そうだ、そしてそのま ま酔い潰れてロビーのソファーで寝てしまったんだ。体を起こそうとすると膝がガクガクと震えた。僕は生まれたての小鹿みたいに、弱々しく立ち上がって薄明 かりのロビーを見回した。僕以外に誰もいない。チクショウ、これだから酒は嫌いなんだ。

  呆然と佇みながら、非常口の緑色の光がチカチカと点滅しているのを見ていたら、喉が渇いてるのに気が付いた。水を飲むために台所へ行こうとしたが、僕は足 を止めた。確か夜間中は兵が勝手に食料を食べてしまわないために、台所は閉鎖されているんだった。仕方なく僕は外にある蛇口へ行くことにした。

 蒸したホテルの中とは違って、外は涼しい風が吹いて爽やかだった。鬱陶しかった虫の音も、涼しい風の前では心地よい子守唄のように感じる。

 蛇口を捻ると勢い良く冷たい水が出てきて、僕は蛇口に口をつけて飲んだ。以前はこの村の水道水なんて飲むとすぐに腹を壊してしまったが、今ではなんともなくなっている。この村に体が順応してきたんだろう。

  変わったのは体だけじゃない。これまで僕は、愛というものを知らなかった。だけどルーシーと出会ってから、愛というのは凄まじく大きい何かがあって、そし てそれは愛でしか手に入れられないものなんだということを知った。きっと日本にいる奴らに言うと馬鹿にされるだろう。けれどこれは、どうしようもないくら い事実だ。そうだろうルーシー? そばにいるはずもないけれど、僕は星が満天に輝く空を見上げてルーシーに綺麗だ、と呟いた。日本じゃこんなのは見られないよ。ルーシー、僕はこのままが続 けばいいと思うんだ。戦争なんか隣の街でずっとやっていて、それは僕たちには関係のないことだろう? こうしてダラダラと、平和にのんびり暮らしていければいい。そしてきみのそばにずっといられれば、それ以外は何もいらないよ。

  虫は鳴き続けている。ルーシー、きみさえいればこのやかましい音も自然のオーケストラに聴こえるよ。耳をすます。僕は自分自身の呼吸音をできるだけ抑え て、延々と鳴り続けている虫の音に眼をつぶって聴き惚れる。フォンフォンフォンフォン、音が渦になって僕を吸い込んでいく。下降感と浮遊感とが交互に訪れ て、意識の電源を落としたり入れたり。それすら今の僕には快感だ。

 ふと、虫の音に混じって人の話し声が聞こえているのに気が付いた。それは蚊の羽音のような、虫の音にそっくりな囁き声だ。辺りを見回しながらその囁き声に耳に傾けると、どうやら基地近くの路地裏から聞こえているらしかった。

 こんな夜中に一体何を話しているんだ? 虫の音から囁き声がよく聞こえるように耳をチューニングしながら、囁き声の発信源である路地裏のほうへと近づいていく。それにつれて囁き声はどんどんと大きくなっていく。囁き声の会話は言葉の速さから争っているようにも聞こえる。

「今さら何を言っている。もうこれしか方法がないんだ、やらなきゃ俺達がやられるんだぞ」

  路地裏の角を曲がるとそこはちょっとした広場になっていた。細い木の電柱が立っていて、それに取り付けられた黄ばんだ電灯が、辺りとその下に立っている三 人の人影を薄汚く照らしている。薄暗く、ぼやけて見える人影に僕は目を細めた。目が慣れるにつれて人影は曖昧な輪郭をはっきりとさせていく。色、明暗、そ して表情がそれぞれ主張し始め、それらの組み合わせによって、僕はこの場にいる人物たちを認識していく。

  立っていたのは所々擦り切れたTシャツと半ズボンを着た中年の男が二人と、白いワンピースを着た少女だった。中年二人は知らない。けれど少女の顔を見た瞬 間、頭の中で火花が散った。脳みその神経たちに強力な電気信号が流れた感覚だ。バチバチと音がする。虫は鳴き続けていて、その鳴き声が頭の中で駆け回るバ チバチと共鳴し、頭全体が振動するような深い響きを生み出している。何も考えられない、頭を振るがノイズがかかった意識は正常に戻らない。とにかく分かっ ていることは、ルーシーがそこにいたということだ。

「ルーシーに何をしている」

  薄汚い灯りに片足を踏み入れる。黄ばんだ光が全身にまとわりつく。それを振り払おうと何度か手をバタつかせてみたけれど、昼間の日光みたいにこの光も粘つ いてしつこく絡み付いてくる。仕方ない、と諦めて視線を中年の男たちに戻した。彼らは油を固めて作ったようなギトギトと輝く目で睨んでくる。虎の目のよう に丸い。瞳孔は薄暗くてよく分からないが大きくなっているように見える。

バ チバチ、相変わらず脳みそはショートしているようだ。だけれど、ショートしているわりには冷静だ。不思議だ、心臓の脈動も正常、手の震えもない。意識のノ イズは消えないが、きちんと何かを考えて行動できている。ショートとはこんなものなのか? 左手が右肘をぎゅっと力強く握った。握った? どうやら左手は右腕に埋め込まれた小銃の安全装置を外しているらしい。……僕自身が外している? どうして? そうか、これがショートか。思考は正常だと思ったけど、どうやら正常じゃないらしい。腕が勝手に動く。きちんと考えて行動しているものだと思ったけれど、 実際はとりとめのないことを考えながら無意識のうちに体が動いているようだ。ならこの思考も正常か? 分からない。これから僕は何をする?

「何のようだ侵略者」

 

 

 

 

 中年の男たちの一人が、ジリジリと歩み寄ってくる。

  そばにいるルーシーは酷く怯えているらしく、小刻みに体全体を震わせている。それにしても、こんな汚いところでもルーシーはキラキラと輝いて美しい。小麦 色の肌と白いワンピースと小汚い路地とのコントラストが、素朴な可愛げさを香りとして出しているようだ。大きく息を吸う。彼女の姿を見ているだけで、この 場の空気は芳醇なものになる。そうだ、この香りは昼間に舐めた紅茶の香りだ。

  渇いた音がした。次に、人が地面に倒れる音がした。もうしばらくルーシーを見つめていたかったけれど、なんだかその音が不吉なことが起きる前触れのように 意味深に耳元に響いてくる。恐る恐る視線を移す。中年の男が倒れていた。それも頭に銃痕があって、そこからチョロチョロと川のせせらぎのように血を流して いる。なるほど、僕が撃ったのか。いつの間にか右腕が肩の位置まで上げられているし、引き金に連結している右手の親指は左手によって手前に引かれている。

「敵意のないような素振りをしておいて、やはりそうくるか、デリンジャー」

 不敵笑うもう一人の中年男の方に右腕が向けられていく。そうなるよな、やっぱり。僕はルーシーに微笑みながら左手で右手の親指を掴んだ。大丈夫さルーシー、これは少しショートしているんだ。すぐ治るよ。

「デリンジャーがフルオートなんかできるものか」

 親指を力いっぱい引いてフルオートに設定する。そして手前に引く。次の瞬間、僕の手の甲に埋め込まれた銃口はガタガタと大きく震えながら大量の銃弾を吐き出した。デリンジャーが右腕に埋め込まれているものか。

 みるみる内に中年男の顔はボロボロと崩れ落ちていって、肉片が飛び散り薄汚い音をたてながら落下する。その音と一緒に、右肘から薬莢が甲高い音をたてて地面に落ちていく。

  甘い紅茶の香りが、一気に生臭い臭いへと変わっていく。息をするたびにその臭いが鼻を突いて、僕は吐きそうになる。ルーシーだ、ルーシーを見れば紅茶の匂 いが嗅げるはずだ。吐き気を紛らわすため、ルーシーを探すが既に彼女はいなくなっていた。そうだそれでいい、ルーシーにこんな薄汚い場所は似合わない。き みに似合う場所は、あの大樹の下だ。

  丘のほうを見てみると、月明かりに照らされて小さく輝く大樹が見えた。緑色である葉は銀色にきらめいていて、幹は灰色に鈍く輝いていた。僕はルーシーがあ の樹の下に佇んでいる風景を想像してみた。それは鳥肌が立つほど美しく、どんな高性能なカメラでも天才的な画力を持つ画家でも切り取ることができない風景 だ。いつかその風景を実際に見てみよう。ルーシー、僕にだけ見せてくれ。そこにいるきみはきっと、またヘッドフォンで音楽を聴いているだろう。僕はそれを 見ているだけでいいんだ。

 ふと後ろに気配を感じて、はっと振り返る。だけれどその一瞬の緊張はすぐに揉み解された。電灯の光が届かない、少し濃い闇の中に立っていたのはルーシーだったからだ。

「ねえルーシー、あの樹の下に行こう。こんな狂った世界はもう放っておいて、あの樹の下に行くんだ。そうして、そのままどこに、遠くに行こうよ」

「狂っているのはあなたよ」

 頭の片隅で、バチバチとショートする音がまだ聞こえている。

「どこに行こうっていうの? 醜い争いがあちこちで起こっているこの世界で」

「争っている連中は狂っているのさ」

「狂っているのはあなたよ」

 バチン。ショートする音とはまた違った、低く大きな音。何かが焼け切れたような音だ。

 

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