緑色の地下室

 

とある雑居ビルの地下室。
壁も床もコンクリート打ちっぱなしの正方形。
室内には小さな机と二つの椅子だけ。
暗く冷たい部屋を照らすのは緑色の豆電球のみ。
異様な沈黙に包まれた室内には十数名の男女。
皆の目はどろんと濁っているのだが、ある一点を凝視している。
その、ある一点とは―――




冬だった。
耳が千切れそうな寒風が吹きすさび、都会を冷ましていた。
街路樹の葉がすべて落ち、灰色の空と相まって街に寂しい印象を与えていた。
それでも日常を生きている者たちは不平も漏らさず早足で目的地へと歩いていく。
電車からプラットホームへと無数の人が吐き出される。
わらわらと歩く人々は自動改札機まで流れる川のように移動し、そこを抜けると各々の目的地の方角へと霧散していく。
朝の冷たいタイル張りの床を数千人が間断なく行き来する靴の音を聞きながら、一人の男が目を覚ました。
駅の廊下にこんもりと詰まれた段ボール。 行きかう人の中にはみの虫のようなそれに舌打ちを漏らす者もいる。
駅構内を拠点にしているホームレスだ。
男が何ヶ月も洗っていない髪を掻き毟ると、臭いという声が波紋のように広がる。
もう何日まともなものを食べていないのだろうか、乞食は考える。
世間は年末で忙しいのだな、と寝起きのぼんやりした頭で考え、空腹できりりと痛む腹を押さえて雑踏を眺める。
厚手のコートを着込んだそれらの群れを、乞食は虫のようだと思った。
以前、路地裏で餓死した猫の死体に群がる蛆虫の群れを見た。
肉を求めて蠢く乳白色の蛆虫の群れはこの雑踏の人々によく似ていた。
「俺もこの一員になりてぇな」と呟いて乞食はのそりと立ち上がり、駅構内から外へ出ようとした。
しかし空腹で足元がもたつき、出口の階段が遠くに感じる。
乞食は落書きだらけの壁に手を付きながらゆらゆらと歩いたが、途中で足がもつれて倒れそうになった。
「おっと、危ない」
一人の男が彼を両手で支えた。
驚いた、自分のようなものに触れる人間がいたとは、そう思いながら乞食は上等の黒のコートを羽織った男にぼそぼそと礼を言う。
「いえいえ」黒コートの男はそう言いながら、まだ乞食に肩を貸している。
「もう、いい」
「目的地までお供しますよ」
「目的地……
「どこですか?」
乞食は返事に窮した。
そもそも目的地なんてないのだ。
適当に外を歩いていれば何か見つかるかもしれないと思って歩き出したのだ。
何かとは?
職に関するうまい話?
食堂の裏路地のゴミ箱に昨夜捨てられた残飯?
自分を哀れんでお金をくれる聖人君子?
「どこでもない」
小さく乞食は漏らした。
「そうですか」
黒コートの男も小さい声で言う。
乞食の無精ひげや目ヤニの付いた目尻、そして白髪混じりの髪の毛などをじろじろと見て、黒コートの男は思案深げな表情をしている。
乞食にはその表情が、警察や駅員のそれとは違うことに少し安堵していた。
しかし唐突に男が漏らした一言に身が凍った。
「あなた、もしかして死にたかったりしませんか?」
……
相手の目を凝視するが、そこに冗談を言っているような色はない。
乞食は少し怯えて、目の前の男にとりあえず謝罪をする。
「ごめんなさい、すぐにここから出て行きますから」
「いやいや、そういうことじゃないですって」
黒コートの男が笑む。
雑踏の音にかき消されそうな、ほんのわずかな忍び笑いをこぼす。
「俺、臭いだろう? もう離れた方がいい」
「まあまあ」
乞食が身じろぎして男から離れようとするのを押さえて、猫撫で声で続ける。
「ちょっといい話なんですから、聞いてくださいよ」
「いい、いい」
二人の男が駅構内の廊下でじゃれあっているのを、通勤中の大人たちが無機質な視線で捕らえる。
「みんな、見てる」
「あのですね、私あなたを百万長者にできるんです」
「離してくれ、虱(しらみ)がうつるぞ」
「それも今日の内に」
「そんなうまい話あるか、乞食を虐めてあんた楽しいか」
「虐めるだなんてとんでもない」
「早く離すんだ」
「じゃあこれを受け取ってくれますか」
黒コートの男に開放された乞食はふらつきながらも男の目を見据える。
そして差し出された男の手に視線を移すと、そこには一枚の紙切れが。
「今夜そこでいいことしますから」
「いいこと?」
乞食は紙を受け取ると、書かれていた簡易な地図に目を通す。
地図のビル街の一角に赤い印が付いていて、『B2』『19:00』とだけ書き足されていた。
「この身なりじゃどこにも行けない」
「無料で参加できますから是非お越しください。○○に教わったと言えば、簡単に通してくれますよ」
「ふん」
男に背を向けて乞食は段ボールの我が家へと戻る。
もうこのまま寒さと飢えで死んでしまえばいいのだ、と思いながらよたりよたりと歩を進める。
「気になるのでしたらこれをどうぞ」
男は廊下の床に裸の一万円札を置いて足早にその場から去っていった。
これで身を整えろということだろう。
乞食は男の姿が見えなくなってから引き返し一万円札を拾った。





一万円札を使い、乞食はチェーン店で牛丼を食べた。
そしてコンビニでカップ酒を買い、それを飲みながらサウナへ向かった。
サウナでは体を隅まで洗い、湯上りで上機嫌の乞食の頭には、もうさっき出会った男の顔が思い出せなかった。
中肉中背の体型で、特徴のない顔をした彼のことは思い出せないが、乞食は尻ポケットに折りたたんでねじ込んだA4サイズの紙を何度も眺める。
歩いてすぐに行ける場所にあるビルだった。
このまま黙っていようか、とも思ったのだが万札の礼くらい言うべきだろうか。
いやしかし、と迷いながら、夜までの時間を暖かな漫画喫茶の個室で過ごした。
体は綺麗になったが、服を買うのを忘れていた。
ドリンクバーのメロンソーダをがぶがぶ飲みながら男はそう思ったが、紙に書いていた時間が迫ってきていた。
「ちっ」
舌打ちをして店を出ると、地図の場所へと向かった。




朝とは違い、夜の蛆虫たちはどこか浮かれてみえる。
仕事から解放されてこれから帰途へ着くのだから当然だ。
乞食にはそんな肥え太った蛆虫のような人の群れに小さく憧れていながら、実際には悪態をついて唾を吐くことしかできないでいた。
このまま金を使い切ったらまた寒い段ボール暮らしが始まる。
黒コートの男に会わなければ、飢えて死ぬかもしれない。
そんな不安が脳裏をよぎった。
だから乞食は地図の場所を目指すのだ。
ビルの前には、ここが金融会社の事務所だという旨が書かれた小さな看板が掛けられていて、ドアを過ぎると入り口の脇すぐに階段があった。
それは上と下に続いていて、乞食はB2と書かれていたのを思い出し、迷わず下に向かった。
地下一階には踊り場しかなく、小さな蛍光灯で足元が照らされていただけだった。
そのままタイル貼りの階段を下ると、やがて階段が終わり、小さな鉄の扉が目に付いた。
扉の前には男が一人佇んでいて、ぼんやりと中空を見つめていた。
乞食は男に○○はいるかと尋ねた。
すると男は何も言わずに扉を開けて、中に入るように顎でうながした。
おどおどと乞食は薄暗くて中がよく見えない部屋の中に入った。
そ こで乞食は、生死を自分で決められず目の前の餌に向かって進む自分自身がもう蛆虫たちと同じだということに思い至って苦笑したが、室内は人の表情もわから ないほど薄暗くて誰にもその笑みは見られていなかった。部屋に入ると今朝の男が挨拶してきて、乞食が所在なさそうにしていると、椅子に座るように促され た。
それからは何もかもが乱暴で素早かった。
椅子に座ると数人の男に体を押さえつけられ、抗議の暇もなく縄で椅子に縛り付けられてしまった。
暴れると黒スーツの男に殴られ、睨むとナイフを目の前でちらつかされた。
ひたすら押し黙っていると、次第に落ち着いて部屋を観察することができた。
部屋は薄暗く、緑色の小さな豆電球のみが室内を照らしている。
そして顔がよく見えないが、服装から判断して十数人の男女が壁際に立ってこちらを見ている。
豆電球の明かりが弱くて端まで照らされておらず、部屋の広さははっきりとはわからない。
天井の豆電球に加え、今自分が座らされている椅子と、その目の前の机、向かい側にはもう一脚椅子、そして人間たち。それがこの部屋にある全て。
「おい、口ふさげ」
今朝の男が乞食を押さえつけていた男に言う。
するとすぐに白いタオルが用意され、今朝の男がそれを持って乞食の方へやってくる。
「おい! いいことってなんだっ、俺をどうする」
「すぐわかりますから」
「今言え」
「あなたの運命は神のみぞ知る、ですよ」
「おい、ふざけるな。どういうことだ」
そこまで言うと、男は乞食の脇腹を膝で鋭く蹴った。
「ぐっうぅ」
「噛め」
嫌な唾が口内に充満するのを感じながら、乞食は男に柔らかな何かを噛まされた。
「思い切り歯をかみ締めると、欠けたり折れたりするそうです。 だからいいことをする時、主役にはボクサーがするのと同じマウスピースを噛んでもらってます」
ぐにぐにとしたマウスピースを奥歯で噛むと、ガムテープで顔の下半分を巻かれた。
口が開けなくなり、男は鼻でしか呼吸ができなくなる。
「視界も邪魔でしょうから―――
同じくガムテープで乱暴に目も覆われる。
その様子を見て、壁際の人間たちが静かに笑う。
まるで無数の虫が体の表面を這うような、嫌悪感を与えるざわめきだった。
しばらくすると、扉の開く音と複数の人間が暴れたり喚き散らす音が乞食の耳に入った。
そして音が向かいの椅子に移り、ガムテープを扱う音がしばらく聞こえた。
乞食は音から大体のことを察知した。
目の前の椅子に俺と同じようなのが一人座っているんだ。
相手は部屋に入ってきた時には視界が奪われていなかったのだから、俺の存在には気づいているはずだ。
そして乞食は、机を間に挟んで二人の人間が向かい合って座った状態を頭に浮かべた。
そして自らの鼻息と壁際の人間たちのざわめきだけがしばらく聞こえ、手のひらがじっとりと汗ばんできた頃に、今朝の男の声が部屋に響いた。
「さて、そろそろ始めましょう」
人間たちがざわめき、間を空けて拍手をする。
人間たちの拍手が止むと、目の前の机に男が何かを置いた。
椅子に座らされた二人はごとりと重厚な音を立てたそれを見ることができず、ひどい恐怖に襲われ頭痛がする。
「みなさん、ご出資まことにありがとうございます。まず手始めに順番を決めたいと思います」
要領の悪い男の司会に、壁際の人間たちが再びざわめく。
男がコイントスで順番を決めるという趣旨のことを言い、ルール説明が済むと次いでコインを指で弾く甲高い音が響く。
コインを空中でキャッチする音。
「それではお待ちかね―――
男が机の上の物を持ち上げる。
乞食の方へ歩いていき、それを眉間に当てる。
……――!!」
乞食が恐怖で首を激しく振る。
すると首に冷たいものが触れ、肌の表面を緩やかに滑り、傷つけた。
それだけで乞食は恐怖で嘔吐しそうだった。
そして首の動きを止めると、大人しく眉間にさきほどのものを受け入れた。
「それでは第一回目」
男の声が遠くで鳴っているように聞こえた。
そして何分もかけて喋っているような、ひどくエコーのかかったマイクを通したようなのろい声に聞こえた。
乞食の五感の内、触覚以外は狂ってしまっている。
自分でもそのことがわかるくらい、脳はしっかりとしているのが逆に辛い。
いっそ完璧に狂ってしまえたら……
男の声が終わり、ガキッという金属音が響く。
次いで、人間たちが足をどどどどと踏み鳴らし、歓声のようなものをあげる。
気が遠くなるような喧しさ。
どどどどどどどどどどどッッ!!!!
凄まじい濁流の映像(イメージ)が頭に浮かぶ。
乞食が汗だくになり放心していると、男は向かいの椅子へと歩いていった。
また金属音。
そして地鳴りのような足音。
「運がよかったですね、日ごろの行いが良いのでしょうかあ」
男が軽薄な口調で言うと、狂ったように人間たちが笑う。
喘息の発作のような笑い声が収まるか否か、また乞食の眉間に硬いものが触れる。
意識が、感覚が、思考が、冷たい鉄の当たる箇所に集約される。

今までの人生が思い起こされ、無性に泣けてくる。
自分を冷たくあしらった会社、愛想をつかした家族たち、街を行きかう人々、無力な自分。
全く意味がない人生だった。
なのにまだ未練がましく死にたくないなどと願っている。
そんな自分の境遇全てが悲しく悔しく、そして情けなかった。

激しい緊張に包まれたうるさい静寂の中、女の声がした。
「ねえ、もう二百万払うからその男の順番を一回増やしてよ」
ざわめきと、足音。
男が了解ですと言うと、割れんばかりの拍手が鳴った。
「よかったですね」
誰に言うでもなく男が漏らす。
今朝、目的地を訪ねてきた時のような柔和な口調だった。
乞食の額から体の芯に響く金属音。
しかし人間たちはまだ静かだ。
焦らすような間を空けて再び金属音。
大歓声が上がった。
今までで最高潮の盛り上がりだ。

どどどどどどどどどどどどどどどどどどッッ!!!
どどどどどどどどどどどどどどどどどッッ!!

向かい側の椅子ががたがたと音を立てている。
座っている人間が暴れているのだ。
鼻息に怒気のようなものが篭もっている。
「さぁこれで勝負がつきますよ」
男が静かに言うと、人間たちが一斉に静まった。



何時間も待たされたかのような沈黙を味わった後、乞食は今までに聞いたことの無い轟音を耳にした。
そして一瞬の後、人間たちがスコールのような拍手と、おめでとうおめでとうを喚き散らすのが聴覚を刺激する。
「おめでとうございます」
男が耳元でそっと囁く。
そして机の上に次々に乾いた音を立てて紙の束のようなものが置かれていった。
人間たちが机の上に札束を置いていっているのだ。
部屋で行われていたのは娯楽に飢えた金持ち達が世に必要の無い者達を生贄にして行うロシアンルーレットだ。
開催に必要な資金として、運命を勝ち取った者への賞賛として、札束が机にうず高く積まれていく。
乞食は音の洪水に溺れながら、火薬の匂いで催した吐き気を堪えていた。
さっきまで走馬灯のように浮かんでいた光景は全て消え、代わりにただひたすら逃げたい逃げたいと心の中で叫びながら、縛られたまま痙攣のように暴れていた。 がたがたがたがたっ。

 

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