五反田駅から徒歩十五分、駅前の雑多な感じから逃れた、悪い意味で閑静な住宅街の中にある小さなアパートの一室で俺は寝ている。パンクロッカーになりた くて新潟から上京したはいいものの、バイトが見つからなくて、雨の日、とにかくなにもすることがなくて凍えそうになりながら、冬、一人で、夢を見ている。
  灰色の空からは黒い粉が降り続け、地面に届くより早く融けて消えていた。中空をアロアナが体をうねらせながら飛んでいて(ピラルクかもしれない)、錦鯉 や金魚の色鮮やかなのが一緒になって飛んでいる。見上げる俺の首は痛くなり、足元を見てみると、足が地面から数センチ浮き上がっていて、歩こうとするとホ バークラフトが移動するみたいにホバリングしてしまい安定しない。地面には鳩やチャボが埋まっていて、頸から上だけ地上に出して鳴いている。グルポーグル ポー、キャーーーンアッアー、とけたたましい。
 俺は大学に行かなくていけないことを思い出し、夢から覚めたいと思うけど、『嘘吐き』と空にでっかくゴシック体の文字が浮かび上がる。

 

『眠たいんでしょ。もうちょっと眠っててもいいよ』 
 
  鳩もチャボも文字もうるさいっ。叫んだが、喉ががらがらして痛くなるだけで、声は全く反響しないで素早くどこかへ去っていく。もやもやした気持ちを晴ら したくて、とにかく今すぐにでも自分の意思で発せられる大きな音を聞きたかった。ベースギターが現れ、ストラップが肩にかけられた。ストラップが肩に食い 込むほど重い。さっそく弾く。練習なんてほとんどしたことがない俺が、勘で弦をまさぐるだけで心地よい音を奏でられた。ファズがかかってギスギスと歪んだ 音が聞こえてくる場所は空からで、下からのグルポーグルポー、キャーーーンアッアーと、上からのボンビキゴガガとが融け合って、体がとろけそうに気持ちが よかった。 
 でもすぐに空しくなって、俺はベースを地面にたたきつ ける。数センチ浮いてるから叩きつけづらく、クラッシュのロンドンコーリングのジャケットのように やりたいのに、実際にはへっぴり腰になって無様に畑を耕しているようにしか見えない(その様が、監視カメラの映像でも見るように第三者目線で俺の目に映 る)。そして足が空中でふわりと滑って転ぶ。大げさなほど、すさまじい衝撃。痛みはないが、とても惨めな気持ちになって泣きたくなる。涙腺からストレスが 溢れる。
 
『そう言えば、もう少しで今年も終わりだね』 
 
『クリスマスイブだね』 
 
『山下達郎が歌ってるね』 
 
『恋人はいないのかい』 
 
『友達はみんなつまらなそうに俯いてるけど、彼女とイチャイチャしてて本当はとても楽しいよ』 
 
  ゴシック体の文字が鳩とチャボよりうるさく主張してくる。どこを向いても文字が追ってきてしまう。文字から細かい毛が生えていてそれが気持ち悪くて、俺 はそこから逃げ出したくなる。走る。しかし足は滑り、うまく走れない。転んだり踏ん張っていたりすると文字は速度を落として、「待ってやる」とでも言わん ばかりに余裕を醸す。うまく走れて俺が喜んでいると速度を上げて、俺を焦らせる。もしもあの汚い文字に触ってしまったら俺はトラウマを抱えてしまって、二 度と本気の笑顔が作れなくなるかもしれない。そう思ったから俺は焦った、急いだ、慌てた。
  ビルの壁に梯子があった。梯子はいい、手でしっかりと掴んで上れるからとても安心できる。体が躍動する。ビルの屋上まで十数秒ほどで上ることができた。 俺はビルの屋上を走り、そこから高く飛んで紙飛行機のように滑空してすごい速度で遠くへ逃げる。アロアナの肌がどんな感触なのか知りたくて手を伸ばすと、 突風が起こり、体のバランスが崩れ、俺は落ちてしまう。錦鯉と金魚(よく見るとらんちゅうだ)が煌めくのが一瞬見えて綺麗だな、と思ったのもつかの間、後 はグルポーグルポー、キャーーーンアッアーに包まれ、耳が風を切る音も聞こえずに(真空のようだ)、鳥だらけの地面に向かって加速していった。
 
 『レポートの提出期限がもうすぐだね』

 

 『受験受験受験、ご苦労さま』
 
 『もうちょっとお勉強が続くよ、ご苦労さま』

 

 俺を労(ねぎら)うな! 俺自身が俺を労うなんて絶対にあっちゃ駄目だ!

 

 落ちていく時、ゴシック体の文字以外にも、雑多な「物」が目に映る。

 

 オービタルの「ザ・オルトゥゲザー」のドクロのジャケット。

 

 太宰治の「二十世紀旗手」の文庫本の表紙。

 

 美術館で買った鍵の意匠の描かれたコースター。

 

 デスクトップパソコン。

 

 ハワイで買ったサンダルの形をした陶器の置物。

 

 子供の頃にクリスマスプレゼントにもらったマリオの目覚まし時計。

 

 コーヒー茶碗。
 
 鉛筆。

 

 手鏡。

 

 卓上ライト(汚れがやけに目立つ)。

 

 埃にまみれたたまごっち。

 

 卵の殻。
 
 ドリップした後のコーヒー粉(捨てたくて仕方がない)。

 

 汚い衣類。

 

 平たい体をした裸の女が映っているだけのテレビ。

 

 シダ類。  

 

 紫色の泡。

 

 虹色の早稲田大学の赤本。

 

 緑色の古今亭志ん生の「牡丹灯篭」のカセットテープ。
 
 橙色のニードル。

 

 ペグがゆるくてチューニングがぐちゃぐちゃのウクレレ。

 

 シングルベッドのナット。

 

 ジョジョの奇妙な冒険の28巻。 
 
 色紙。

 

 TMGEのポスター。

 

 錆びついたケトル。
 
 黒いレギンス。
 
 多重人格探偵サイコのスクラップブック。

 

 老眼鏡。

 

 お〜いお茶の500mlペットボトル。

 

 石器時代のセキュリティーとだけ書かれたメモ帳。

 

 相武紗季の卓上カレンダー(いつまで経っても彼女の顔を覚えられない)。

 

 英語のプリント。

 

 非常階段の隅に吐かれた痰。
 
 ピンク色のマカロン。

 

 落ち葉の裏。

 

 
 あ、地面が迫ってくる――――  

 

 ――――横になったまま、体が跳ねる。目が覚めた俺は寒さに耐え切れず、体が温まるまで毛布を被って三十分ほどじっとしていた。時計を見ると大学の一時限目の講義はもう終わっている時刻だった。
 首が痛い。腰も少し。壁を見ると『両親に申し訳ないと思わないの』と書かれていたが、それは夢の中で見たものを現実で見たものだと思いこんでしまう現象なのだとわかっていたから、壁を撫でてしっかり消しておいた。
  インスタントコーヒーの粉をマグカップへ入れて、ポットからマグへお湯を注ぐ。ブラックのままそれを飲みながらいろいろ考える振りをしてみたが駄目で、 今日はバイトを探そうかな、と思うがそれもこの寒さに加えて雨まで降っているので駄目で、この心の中にとぐろを巻いている罪悪感を消すにはどうしたらいい んだろうなと思って、俺は紙に詩を書いてみた。仕事をした、と思ったら安心感を得ることができた。
  もう外に出る気はさらさらないが、とりあえず寝巻のスウェットを脱ぎ去り、膝に穴の開いたジーンズを穿き、捨て犬色のタートルネックのセーターを着る。 異様に片付いた洗面所で、父親にもらったシェーバーを使ってひげを剃る。顔を冷水で洗う。ひりつく感じに心の中で舌打ちをし(誰に気を使ったのだろうか) 視線を頭に移す。首筋を覆うほどに伸びた髪は目を隠していて不衛生だ。とっ散らかったそれを濡らした手で撫でつけ、無愛想なヘアピンで留める。美容院は値 段が高い。髪を切るのになんで三千円も取られなくてはいけないんだ。新品のCDを一枚買った方がよっぽどいい。でも、そこでハサミを使って自ら髪を切るほ ど諦めてはいなかった。節約のつもりだったが、ただの出不精だ。カート・コバーンのつもりだったが、ただの不衛生だった(いっそ安斎肇やみうらじゅんのよ うになるまで伸ばせばよかった)。 
 居間兼寝室兼台所に戻って窓の外を見ると、雨脚が強まっていた。窓から往来を見ると放置された自転車が激しく雨に打たれている。飲みさしのぬるくなったコーヒーを飲みながらじっと見る。
 
 西暦20001224日、 俺は寝ても覚めても夢見心地で生きていた。冷たい雨はきっと雪になんかならないだろうと世間に皮肉を言いながら、それでも 寂しさと自己嫌悪と両親への罪悪感でつぶれそうになりながらベースの練習もしないで詩も一カ月に一つしか書かないで、それで、コーヒーがなくなったら買い に行って後は家にこもって本も読まずに寝てばかり。寒かった。二十世紀がもう終わるが、俺には何かが始まる予感なんてなんにもなかった。

  五反田駅周辺は散らかっている。ホームレス、ポン引き、ダフ屋、やくざ、行くあてのない若者、俺のように不甲斐ない顔でうろつく者もいる。清潔な景色は 液晶の中にしかなく、パチンコ店からはタバコの煙と騒音が溢れ、キャバクラのドアからも似たようものと雰囲気があふれていた。怪しげな雑居ビルに消えてい くスーツ姿の男たちはいったい何をしているのだろうか。どうせ悪いことをして金を稼いでいるに違いない。昼のクラブへ消えていくBボーイたちはいったい何 をしているのだろうか。どうせ不埒なことをして笑っているに違いない。俺は求人募集の張り紙を探しながらどん底を歩いていた。
 晴れの日を選んでバイトを探しに外に出た俺は早くも絶望していた。雨が降ってきたのだ。ここで巣に引き返すのも癪(しゃく)なので、コンビニでビニール 傘を買った。出費が……。 天気予報が当てにならないのは知っていたが、まさかここまで裏切られるとは。訴えたい。しかし訴訟する元気も金も弁護士を雇う信 頼も何もかもない俺はぶちぶち言いながらうつむきがちに歩き続ける。雇う側としては、この時期は人手が必要だろう。金が必要なんだ、雇ってくれ。
  冬の雨はどんどん体温、ひいては体力を奪っていく。日ごろの運動不足のせいもあり、足が重い。ここはキツそうだ、ここは時給が不満だ、とやっている内に 腹が減ってきて、松屋で豚丼並盛りを食べて適当なゲームセンターに入ってタバコを吸ってしばらく居座る。出鼻をくじかれて絶望した体を癒し、またも外に出 るが、それでも何も収穫はない。通りを歩いては厳しそうな職場に圧倒され、路地裏を覗いてみては若者がたむろしていて入り込めない。もう周辺は諦めて、隣 駅、まで行って交通費をもらえるところを探そうか、と思う。
 植え込 みのへりに腰かけて考えを巡らせた。パンクロッカーになるために上京して仕送りを受取りながらアパートで独り暮らしをして、仕事がみつからなくて 引きこもりがちで大学を卒業できるか本当にわからなくて他にやりたいこともなくて、生まれつき虚弱の体質と根性不足のせいでなかなか腹も決めかねて、俺は これからどうなるのだろうと、とても不安になる。野良犬でさえ同情しそうになるくらいに俯いてしまう。鈍色(にびいろ)の空に押しつぶされたようになって しまう。深く潜ったままになってしまう。
 隣に何か穀物を収穫した重 たい袋が置かれたような音がした。見ると派手な身なりの女が座っていた。明るく染められた茶髪の毛先がくしゅくしゅっと巻かれ ていて、化粧が上手な彼女はたしかに美しかったし可愛かったけど、目を離して数分も経たない内に忘れてしまいそうなほど印象が薄かった。俺が若い女性の顔 を覚えるのが苦手なのか、女がどいつもこいつも似たような見た目だからなのか…………たぶんどっちも。
「ちょっと雨宿りさせてね」
 彼女がぐっと距離を詰める。俺の傘が雨をしのげる範囲内に一気に入ってくる。俺は傘を心持ち彼女に近づける。片方の俺の肩が少し濡れるが、それより彼女を濡らしてはいけないという使命感が強かった。
「お尻、濡れちゃった。冷たい」
 俺はただ黙って屋根を貸していた。目線を動かす。ホットパンツから覗く太ももに目が留まり、それからくびれた腰、尖った胸(黒い下着が透けて見える)、細い首、丸いあご、俺を見ている人工っぽい目。
「じろじろ見ないで」
 俺はすかさず謝る。申し訳なさそうにうつむく。
「あらら、委縮しちゃってー」
 頭の悪そうな彼女から「委縮」という単語が飛び出て、うお、と心の中で漏らす。もしかしたら頭がいいのかもしれない。
「お金払ってくれたらいくらでも見ていいし、触らせてもあげるんだけどねー」
 と言いながらずっとこっちを見ている。
 俺は怖かった。これから店に勧誘されるかもしれない。店には黒い服の屈強な男がいて、ビールとフルーツをいただいた俺に多額の(なっとくのいかない)請求をしてくるかもしれない。
 居心地が悪く、俺はもぞもぞする。早く立ちあがりたい。
「なんか喋ってよ」
 口下手な俺は、ああ、とかうう、とか言いながらどもる。
「彼氏に買ってもらったミュール、サイズが合ってないのよねー。靴ずれしちゃって足が痛い痛い。これからお仕事なんだけど、ちょっと休憩。……ねーねー、話し相手になってよー」
 俺のダウンジャケットの裾をつまんで、疑似餌に食いつくブルーギルのようにちょいちょいと引く。
 俺は、自分が今日何をしに五反田に来たのかを彼女に話した。彼女は、俺の話をところどころ相槌を打ちながら、真面目に聞いてくれた。
「ふーん、で、今はこうやって頭の悪いキャバ嬢に逆ナンされて困ってます。助けてー、ってとこねー、きゃははは」
 本当にきゃはははと笑ったのだ。まずはそのことに驚いた。文字を朗読するかのように、正確にきゃはははと発音して笑ったことに。次は逆ナンという単語に驚いた。
「髪染めて、センスいい服装だけど、なんかわかるよ、君の顔見てると」
 彼女がまじまじと俺の顔を見る。
「私の仕事は、毎日毎日人と接すること。だから、顔見ただけでだいたいその人がどんな精神の持ち主かわかるんだ」
 精神とは、大きく出たもんだ。でも、俺はその言葉にとても興奮した。こういう見た目の女の口から次々と耳触りの良い言葉が飛び出すと、それだけで男は胸やけがしたみたいに心臓を病んでしまうものだ。
「気になるでしょー? どう思われてるのか」
 俺は正直に首を縦に振る。
「きゃはは、素直でよろしい。君はね、憂いを帯びててね、とても魅力的。女の持ってる庇護(ひご)欲を刺激するの。この先、地味だと思うけど、それなりにモテるんじゃないかな?」
 そんなこと――
「嬉しくないの? 自分のことを想ってくれる女性が現れるんだよ? 私が保証するよ」
 行きずりのキャバ嬢に保証されても……。しかし、俺はまんざらでもない。クリスマスを呪いながら、すぐにこうやって浮かれてしまう自分に後で自己嫌悪になるのはわかっていながら――いながら冷静に浮かれた。
「きっ とそれは君の頭が良すぎるからだよ。ほら、君ってちょっと頭が、ていうか脳みそが大きいんじゃない? 人よりぎゅっと詰まっててね、考えすぎるきら いがあるんだよ。ちょっと減らした方がいいよ。そんなんじゃあ生き辛いよ。二十世紀が終わる前に、君も大きく変わろうよ。なーんて」

 

  彼女は薄汚いビルを指差しながら、俺の目を見ながら誘惑した。俺は非常階段で彼女とコンクリートの床にシミをちょっと増やした。頬張りながら見上げる彼 女と目が合って、とても空しい気持ちになり、この気持ちが俺の駄目な部分なんだろうな、と思う。もっと純粋に行為を楽しめなくては、もっと純粋に目の前の 熱を抱けなくては、俺にパンクな未来は待っていないような、そんな予感がする。
 俺はトランクスをすねまで降ろした、下半身が凍える無様な格好で、今朝の夢よりはるかに夢っぽい目の前の現実を見て何かを悟りそうになったが、真理はするするとアロアナのようにすり抜けて雨の中を泳いで逃げて行ってしまった。

 

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