檄。(九十二回目)
殴打。(三十六回目)
バット。(二回目)
血。(五十八回目)
蝶々。(四十三回目)
落下速度。(二十八回目)
夢。(五百六十六回目)
――――「あ」
口を開けると、それに連動し、言霊が繰られた。(五百六十七回目)
今のも、嘘ではなかった。
今のも、夢ではなかった。
少年は考え、諦めた。そして呟く。
「僕にとってのバッドエンドが、つまりはトゥルーエンドなのか」
五百六十七回目の思考。
考え、寒気がした。少年は肩を震わせ、歯を鳴らし、地団駄を踏み、涙を浮かぶ。
「これが夢だという」
目の前には確固たる平和。
しかし、いずれ牙を剥く。
このスタートは間違っていないはず――ラストの状態での回帰は有り得ない。
そして、この、一分後というタイミングで、彼女は訪ねてくる。
「おはよう」
少年は彼女の顔を認識し、嘔吐する。(四百九十八回目)
「どうしたの。大丈夫? ■■■君」
「あ、う、うん」
まさかと思った。
ノイズが邪魔をした。
意識にフィルタが掛けられた。
「■■は悪くない……悪いのは、いつも僕だ」
少年は彼女に話し掛ける。しかし、やはり雑音。
「いつも……?」
彼女が首を傾げる。
「僕がフラグを間違っただけだよ」
彼女が首を傾げる。
「■■■君。いつもよく分からない言い方だけど、今日は特別謎めいてるね」
少年は、内心、五百十回目だけど、と呟く。
憂鬱。■■■――
両親に訊くフラグメントは、全て失敗。■■といる時の方が、結果はどうあれ、幸福結末に近い。
少年は気付く。ああ、■■は僕のことを「■■■君」と呼んだ、と。確か君付けの方がいい経過だった、と――いい結果は現れない。
「ねえ、■■」
「どうしたの?」
そこで、無意識にフィルタを掛ける。
がくと崩れ落ち、意識が混濁に招かれる。
僕の夢、かい。
それは、睡眠時に見るあれのことか、将来の像のことか。
ふうん、将来、か。近い将来か、否か、ね。僕に遠い未来なんてあるのか、分からないけれど。
脱出だね。
確固たる脱兎を願望する。
僕は気がおかしくなりそうだ。
だって、君、初恋の相手を殺すんだよ? このパターンは、最近、多いね。以前は、両親を殺すエピローグが多かったんだ。
所謂、オルタナティヴだね。
大体さ、代替さ。
嘔吐の理由は――「■■■」「■■■」
――「■■■ん」
「■■■君!」
少年が意識を戻すと、そこには田圃に落ちている自分がいた。
普段着で、道端に倒れていた。だらしなく、そして現在、その意味は全てを失わせていた。
「あれ……」
彼はリセットした。
回数表示、零。
これは効果があった。発狂というフラグメントを完全に断絶できた。
「■■■君、いきなり気を失っちゃって、ばたって倒れちゃったの」
彼女は説明する。少年に説明する。
少年は耳を貸さず、ふと、生い立ちを思い出す。(三百六回目)
別段何もない、只の農家に生まれる。
都会とはお世辞にも言えない、辺鄙な農村。
人々は車の代わりに牛を持ち、鉛筆の代わりに鍬を倣う。
何故自分は学校に通うのだろう、そう感じながら、■■■■村の子ども達は思春期を過ごす。
平成の世に、何があろうか。テレビはある、パソコンだってある。常識がない。何故なら、必要がないから。
委員長の従兄弟は、英語を学び、ついには留学までしたという。しかし、委員長は言う。「勉強なんて、国語と算数が出来れば、死にはしないですよ」と。
田舎は平坦である。
きっと、代替を任せられた代わり、平穏を押しつけられたのだろう。
変革、なし。
乱雑するビル郡は、そのまま田畑となる。縦横無尽の道路は、畔道に置き換えられる。
夏には蛙の、秋には鈴虫の、大合唱が聞こえる。
季節は夏、時間は昼。今は、そう、あの音が響く。
みんみんと、蝉、鳴く。
少年時代不思議だった景色は、汗を掻き、徳を知り、全て払拭される。
と、少年は、は、と気付く。ぼうとしていた少年に、彼女は不思議そうな表情を拵えた。
「ねえ、■■■君。散歩しようよ」
白い歯が光る。
その瞬間を見、少年は、このままどこかへ行けたら、と考えた。
無意識下の願望。もう不可能だと知っているのに。
二人は手を繋いだ。
少年は、片思いの女性の手を握った。
彼女は、片思いの男性の手を握った。
ふ、風。
乗る、蜉蝣。
羞恥の微塵を風で運び、当面少年と彼女は歩く。
散歩。
特に気があったわけではない――ふと、こうしよう、と。
山を歩けば蛭がおり、川を覗けば虻がおり、草を掻き分け蛇がおり、田畑限らず汚泥塗れる。
しかし、少年と彼女は嬉しかった。
二人の時間が、嬉しかった。
恥ずかしさと心強さが同居。
旅路は終わると知りつつも、幾度と繰り返す。
それ雲を見て、変な形。
やれ山を見て、登りたい。
どれ道行く人、祝福。
少年は思った。僕は幸せだ。
何時間か、ぶらついた。
何時間か、ぶらついた後、雲行き、怪しく。
「わっ、雨だ。濡れちゃうなー」
傘を持っていない彼女は、お気に入りの麦わら帽子、抱え込む。
「じゃっ……じゃあ、帰ろうか」
少年は、渋々提案。
彼女の艶やかな髪が、純白のワンピースが、鮮やかな麦わら帽子が汚されるのは嫌だった。
帰路を、駆ける。
少年の家は村の東に。
彼女の家は村の西に。
両の端、構える、家。
傘、あったかなと、少年、捜すも、やはりなく、唯、唯、西方を、目指す。
二人で走る。
少年は、雨は走っていた方が当たらないんだっけ、などと考えながら、たたたとリズミカル、駆ける。
幾分か時間が経ち、彼女の家に着く。
「一人で大丈夫? 傘、要る?」
彼女の問い掛けに、そして少年は答えた。
「ううん、大丈夫。この分だと、雨、降らないかもね」
未だ雨、降らず。
少女の家を発ち、直ぐ、雨が降り出した。
周りに人はおらず。村でも人通りの少ない、そして、雨。誰もいないのは、寧ろ当たり前だった。
雨宿りできる何かも、ない。ではと、少年、駆け足。
やはり、傘、要ったな、と考えつつも、足休むことがない。
果たして三十分程が経った。
彼は雨に濡れ、自宅へ到着した。(三百八十九回目)
親、叱咤。
少年、後のことなど知らず、自室に戻る。
「何してるの?」
「輪廻」
「理由は?」
「不変」
「いつ終わるの?」
「未来」
「接点は何?」
「理想」
「成功回数は?」
「皆無」
「クリア条件の提示を」
「二番目のフラグメント、嘔吐を出現させないこと」
「それはどうすれば」
「条件を突破した例はない」
「ということは、最初の分岐を変更すれば、あるいは」
「無意識下の無為式化の推奨」
「つまり、引き継ぐが所以、トゥルーエンドかつハッピーエンドは送れない、と」
「逆にするならば、エピローグ、彼女の殺害を防げば」
「一つ前の分岐は関係ない?」
「両親は、しかし死ぬ」
「彼女が逆に犯せば?」
「それは有り得ない。少年は自害以外を辿れない」
「つまりこれは……」
「虫。唯の虫」
少年が目覚めると、そこは日曜日の朝だった。
土曜日、雨に降られた土曜日。
夢の夢の会話は知らず、のうのう、生きる。
記憶の引き継ぎを行っても、行わなくても、
「ああ、頭痛いな……」
意味、なし。
忘れもの。(五百六十六回目)
「ん……何か、忘れているような……」
少年は呟いた。少年は思い出さなかった。
二日目の忘れもの。
夢の夢のあの言葉。綴られた言霊に憑かれた真意。
死んだのは誰?
「大切なこと」
少年はフラグメントを折ることしかできない。
記憶を引き継ごうが、一日目、全てを失う。
改竄をしようが、しかし元のルートを進む。
嘔吐と発言を撤回せねば。
「何か――誰か……」
少年は考えた。昨日雨で濡れた自分を迎えたのは誰だったのか、と。
目眩がした。
両親は死んだ。
■■も死んだ。
少年は、
檄。(九十五回目)
殴打。(四十六回目)
バット。(四回目)
血。(六十回目)
蝶々。(四十四回目)
落下速度。(二十九回目)
夢。(五百六十九回目)
――――「ん」
口を開けると、それに連動し、言霊が繰られた。(一回目)
今のも、嘘ではなかった。
少年は考え、諦めた。そして呟く。
「僕にとってのバッドエンドが、つまりはトゥルーエンドなのか」
五百七十七回目の思考。
考え、寒気がした。少年は肩を震わせ、歯を鳴らし、地団駄を踏み、涙を浮かぶ。
「これが夢だという」
目の前には確固たる平和。
しかし、いずれ牙を剥く。
このスタートは間違っていないはず――ラストの状態での回帰は有り得ない。
そして、この、一分後というタイミングで、彼女は訪ねてくる。
「おはよう」
「お、三奈か。今日は何の用だ?」
「うん。何かね、圭次郎君に会いたくって。散歩、しない?」
少ヶ圭次郎が首を傾げる。
「別に、いいけど……あれ?」
少年は、内心、五百七十七回目だっけ、と呟く。
不信。圭次郎――何か、違う。
父親に訊くフラグメントは、全て失敗。三奈といる時の方が、結果はどうあれ、幸福結末に近い。
ノイズのないフラグメント。
そこまで思考が辿られ、無為式化された。
僕の夢、かい。
それは、睡眠時に見るあれのことか、将来の像のことか。
ふうん、将来、か。
脱出だね。
確固たる脱兎を願望する。
僕は気がおかしくなりそうだ。
だって、君、初恋の相手を殺すんだよ? このパターンは、最近、多いね。以前は、父親を殺すエピローグが多かったんだ。
所謂、オルタナティヴだね。
大体さ、代替さ。
「圭次郎君!」
圭次郎が意識を戻すと、そこには田圃に落ちている自分がいた。
普段着で、道端に倒れていた。
「あれ……」
彼はリセットした。
回数表示、零。
その効果により、意識と状況が跳躍した。
「圭次郎君、いきなり気を失っちゃって、ばたって倒れちゃったの」
三奈は説明する。
圭次郎は耳を貸さず、ふと、経緯を考える。(一回目)
鬼ヶ雛沢村。関静翠。前竹圭次郎。鷹宮三奈。既に死んでいる母親。
母親の、代替――?
と、圭次郎は、は、と気付く。
「代替……?」
ぼうとしていた圭次郎に、三奈は不思議そうな表情を拵えた。
「どうしたの? 手、繋ぐ? うふふ」
白い歯が光る。
その瞬間を見、圭次郎は、このままどこかへ行けたら、と考えた。
そして、散歩を続ける。
二人は手を繋いだ。
圭次郎は、片思いの三奈の手を握った。
三奈は、片思いの圭次郎の手を握った。
は、風。
乗る、蜉蝣。
羞恥の微塵を風で運び、当面圭次郎と三奈は歩く。
散歩。
三奈は、特に気があったわけではない――ふと、こうしよう、と。
山を歩けば蛭がおり、川を覗けば虻がおり、草を掻き分け蛇がおり、田畑限らず汚泥塗れる。
しかし、圭次郎と三奈は嬉しかった。
二人の時間が、嬉しかった。
恥ずかしさと心強さが同居。
旅路は終わると知りつつも、幾度と繰り返す。
それ雲を見て、変な形。
やれ山を見て、登りたい。
どれ道行く人、祝福。
圭次郎は思った。僕は幸せだ。
何時間か、ぶらついた。
何時間か、ぶらついた後、雲行き、怪しく。(五百十回目)
「わっ、雨だ。濡れちゃうなー」
傘を持っていない彼女は、お気に入りの麦わら帽子、抱え込む。
「じゃっ……じゃあ、帰ろうか」
少年は、渋々提案。
彼女の艶やかな髪が、純白のワンピースが、鮮やかな麦わら帽子が汚されるのは嫌だった。
帰路を、駆ける。
圭次郎の家は村の東に。
三奈の家は、村の西に。
両の端、構える、家。
傘、あったかなと、圭次郎、捜すも、やはりなく、唯、唯、西方を、目指す。
二人で走る。
圭次郎は、雨は走っていた方が当たらないんだっけ、などと考えながら、たたたとリズミカル、駆ける。
幾分か時間が経ち、三奈の家に着く。
「一人で大丈夫? 傘、要る?」
三奈の問い掛けに、そして圭次郎は答えた。
「ううん、大丈夫。この分だと、雨、降らないかもね」
未だ雨、降らず。
鷹宮家を発ち、直ぐ、雨が降り出した。
周りに人はおらず。村でも人通りの少ない、そして、雨。誰もいないのは、寧ろ当たり前だった。
雨宿りできる何かも、ない。ではと、圭次郎、駆け足。
やはり、傘、要ったな、と考えつつも、足休むことがない。
果たして三十分程が経った。
彼は雨に濡れ、自宅へ到着した。(二百九十九回目)
父親、叱咤。
圭次郎、後のことなど知らず、自室に戻る。
「何をしているの?」
「ステアウェイ・トゥ・ヘブン」
「理由は?」
「眠たいから」
「いつ終わるの?」
「もうすぐ」
「質問の意図は?」
「核心に近い」
「成功回数は?」
「謎」
「クリア条件の提示を」
「二番目のフラグメント、嘔吐を出現させないこと」
「もう一つは」
「記憶の引継ぎ、時間差か、若しくは傘を」
「ということは、意識下の雑音がなくなれば」
「もう一、二巡で終了」
「つまり、引き継ぐが所以、トゥルーエンドかつハッピーエンドは送れない、と」
「逆にするならば、エピローグ、彼女の殺害を防げば」
「引き継いでも、或いは?」
「エピローグまで引き継げば問題ない――嘔吐も、解決」
「つまりこれは……」
「虫。唯の虫」
少年が目覚めると、そこは日曜日の朝だった。
土曜日、雨に降られた土曜日。
夢の夢の会話は知らず、のうのう、生きる。
記憶の引き継ぎを行っても、行わなくても、
「ああ、頭痛いな……」
意味、なし。
忘れもの。(五百七十六回目)
「ん……何か、忘れているような……」
圭次郎は呟いた。圭次郎は思い出した。
二日目の忘れもの。
夢の夢のあの言葉。綴られた言霊に憑かれた真意。
死んだのは誰?
「母親は死んでいた」
少年はフラグメントを折ることしかできない。
記憶を引き継ごうが、一日目、全てを失う。
改竄をしようが、しかし元のルートを進む。
嘔吐と発言を撤回せねば。
後は、傘と雨天。
「あ……」
目眩がした。
死体がある場所は、前竹の表札が掲げられた、一軒家。
母と同じく、父も、埋めた。床を繰りぬき、穴を掘る。
父親を殺し、一分が経った。
「圭次郎君……?」
その名を呼んだ三奈は、数刻が経ち、骸と還る。
「……また、フラグメントを間違えた」
圭次郎は考える。
「次は、全容を引き継がなければ」(一回目)
蝶々の夢の中、鬼ヶ雛沢村は生きる。
僕は混濁した意識から覚醒するのだが、覚醒の際に僕は何をしなければならないのだろうか――そうだ、選択をしなければならない、僕にノイズが混じらない ように、考慮、どうすればこの流れを止め――暇潰しを終えることが出来るのか。僕は前周回を思い出す。僕は何をしなければいけないのか――僕に必要なのは 何なのか。
――――「ん」
僕は目覚めた。喉を振動させ、声を空気に乗せ、伝わらせる。それは、僕がここにいるという確認。僕が僕であるための、生きるための、意味――意義。
思考しなければならない。僕がこれを終演させるにはどうすればいいのか。前回から全て引き継いだ。だから僕は声を上げた。阿吽。ここは、この選択肢で間 違っていないはず。僕は少し、嬉しくなった、希望がある。これも、ある意味賭けだった。僕が引き継ぎを望んでも、それが完了しない場合もあった。イレギュ ラーはあったのだ。このパターンが選ばれたのは、単なるオルタナティヴとしてであり、今までの功績なんかも関係ないかも知れない。確立なのだ。五百以上を 繰り返し、その上でのイレギュラーが積み重なったという、唯それだけ。有り得ないと考えていた、最終局面での邂逅。だからこそ、正解だった。
578
「嫌だ」
「何が……?」
「生きることが、嫌」
だから僕は三奈を殺す。
僕には父がいた。
僕には母がいなかった。
母体たる存在がいない。
愛がなかった。
そして、女が嫌だ。
「じゃあ、私を……殺す? それで圭次郎君の気が晴れるのなら、私は喜んで糧となるわ」
ドアを開き、三奈が入り、僕が入り、僕は包丁を掲げ、二人で喋り、心が――僕が、僕は、僕を? 僕に、僕だ、刺そうとすると、三奈が言ったら、僕は――
「分かった、殺すよ」
僕は、三奈を、殺した。
僕は嘔吐した。
そして気付のく。僕は同じことをしている。じゃあ――
前回を思い出した。五百七十八。何をすればいいんだ。そうだ、用意をしなければ。まずは何が要る。必要なものは何だ。僕は何をすればいい。僕のために、三奈のために、閑静のために。
579
まずは彼女が訪ねてくるはずだ。理由は何だ?
僕がそう思うと、やはり三奈が来た。
「圭次郎君。おはよう」
「どうした、何の用だ」
僕は彼女を殺したのだ――いつ? 夢かもしれない――一秒前かも――百年前かも――何時間――何分――何秒――いや、地球――宇宙――僕の精神――誰の精神――いつ――春――夏――秋――冬。
そこまで考えて、僕は驚いた。ここで嘔吐すれば今までの努力が無駄だということに、驚愕した。そこまで考えて、僕は驚いた。今までは恐怖を忘れるために 忘却をしていたが、しかしそれ自体が間違いだった――僕は僕であるために、そう、殺人自体を記憶し、記録しなければならないのだった。
だから僕は、何もしない。
「たまにはさ、デート、しない?」
予想外だった。ちゃんとした理由があった。初めてだ。反面、僕は怖かった。
「う、うん。いいよ」
晴れていた。
ああ、傘を持たないと。
「何をしているの? 圭次郎君」
「うん、傘、持っていかなきゃ」
「晴れてるのに?」
「晴れているのに」
可笑しかった――だから笑った。晴れているのに、僕、何で傘がいるんだろう。三奈はどう思ったかな、痴呆だとおもったかな、気違いだと思ったかな。で も、それも当たっている。僕は異常だから繰り返す――異常? 僕が? 馬鹿な。壊れているのは――蝶――僕のわけがない。え? でも、人殺しだよね?
吐き気がした。しかし、僕はそれを抑える。言いようもない異物感が、胃の中に漂っている。犬の脳味噌が尿道に入れられたようだ。気持ち悪い――が、母が死んだ時よりはましだ――母が、死んだ――?
そう、死んだ。僕に目の前で、だ。別段迫り来る車から守っただとかシリアルキラーに己の身を捧げたとかましてや借金のために死んだとかそんなわけじゃな くて。小さい頃――五歳かその位の頃、母と買い物に行った。街のスーパーの帰り道。歩道橋があった。今思うと、当時、母は病んでいたのだろう。身投げし た。傷。ドラマみたい――いや、ドラマじゃない、そんな剣のようなことは有り得ない。現実だ、エピソードより奇なり。ギロチンかカッターで斬ったかのよう な綺麗な跡でなく。地面にはぐちゃぐちゃの母がいた。腸と脳漿が撒けられ、知らずに通行した車のタイヤ痕が残る死体――遺体。綺麗に綺麗に五分割されてい た。童心ながら、わくわくした覚えがある。
「今日の圭次郎君、何か、可笑しいね。うふふ」
一呼吸あり、三奈が続ける。
「そうかなあ。で、三奈。どこに行くんだ?」
「うん。いつもみたいにさ、適当に」
いつも……たまにこうして、三奈と二人で出掛けることがある。田舎だ。田圃ばかりで買い物もできない。言いようのない、ノスタルジィと言うか、何と言うか、それが楽しく、二人で歩く――二人出歩く。何の生産性もない、しかし――
僕は何をしている? 二人で――二人で――デート、そう、デート。
僕と三奈は幼馴染だ。通常生きていく上では恋愛感情なんて起こり得るはずもない。が。僕は確かに三奈に恋していた。思春期特有というか、何というか。それは僕の人生観からして有り得ないことではあるが、しかし有り得るのだ――僕は三奈が好きだ。デート。
「手ェ、繋ごっか」
三奈は徒に微笑んだ。僕はそれを見、微笑んだ。無言で差し出された手を取る。嬉しかった。僕は後ろめたいこともなく、こうやって、三奈の手を握られた。
風が吹いていた。
儚い蜉蝣がおり、山を歩けば蛭がおり、川を覗けば虻がおり、草を掻き分け蛇がおり、田畑限らず汚泥塗れる。羞恥。嬉しさの半面、僕は、恥ずかしくもあった。
山を見、川を見、人に見られ。
何時間がぶらつき、何時間か駄弁ったり、そして。そして何か感じた。
「……雨?」
三奈が呟いた。雨が降り出した。そこでようやく僕は思い出す――何故僕は傘を持って家を出たのか。僕が怨めしいと思っている父。僕が大嫌いな雨。僕が大好きな――三奈。三奈。いや、委員長――
「三奈。僕が送っていくよ」
「あ、ありがとう……」
何故か三奈は顔を赤くした。
表札に鷹宮と書かれているということはつまりここは三奈の家であり、雨が降ったため最悪の結末を変更するフラグメントとして僕は傘を持ち、やはり前回と は違う形で終焉へと闊歩しており、僕はようやくの終わりを楽しもうとしていたのだが、最初とここ以外にも、何か幸福結末を回避してしまうものがあるのでは ないかと、明晰夢を覚えられるほどに懐疑的になっていたのだが、そんな僕の思想を変えたのは、三奈の一言だった。
「ねえ、圭次郎君。抱いて」
三奈には所謂trauma、以前経験させられてしまった心的障害後ストレス障害、PTSDがあった。それは先、取り払われた。僕は――
僕の父は、委員長――閑静翠に【梨花ちゃまかぁいいあうあうあー】 を働いていたというのは嘘であり、正しくは現在未だ進行形で働いているのである。いや、最初は嫌がっていた。母が蒸発し、父は夜道、彼女を見つけたのだと 言う。そしていつの間にか、本人すら自覚せぬ内に、世界は変わっていた。彼女は快楽を得た。彼女は汚れた――肉体が、精神が、全てが。
彼女の人生は狂った。金と引き換えに、失った。失った。失った、金と引き替えに。誰が悪いのかと言うとそれはやはり父だが、しかし蒸発した母も悪いのではないか、母に出会いを与えた携帯電話が悪いのか――身を売った、閑静翠が悪いのか。僕が、悪いのか。
僕は彼女を買った。彼女は金さえ払えば性交させてくれた。サセコだとか、そんなんじゃあない。全ては父が悪いんだ。そう、僕は悪くない。トリガーハッピー、父が悪いんだ。奴さえいなければ、僕は、彼女は、全ては、幸せになれたのに。
――夢から醒めた。夢の内容は、確か、蝶々が町を俯瞰する、よく分からないものだったと思う。日曜。雨が降り、傘を使い、そして三奈を家まで送り、■■■■■■、あの日から一日。そして僕は思い出した。夢の内容は――蝶々が俯瞰するものではない。
昔者、荘周夢に胡蝶と為る。
栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみ志に適へるかな。
周なるを知らざるなり。
俄然として覚むれば、則ち遽遽然として周なり。
知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。
此れを之れ物化と謂ふ。
僕は生きていいのだろうか。僕は殺人を犯した。罪は消えたが、償われてはいない。せめて三奈一人だけでも、僕は、救いたい。
僕はまず、三奈に、愛を授けようと思う。